「人を幸せにする」米づくりで地域を豊かに。 名水の里で稲作をする意味。

阿蘇の外輪山やくじゅう連山の雄大な自然に囲まれ、山々が磨いた水が流れる名水の里として知られる竹田市。とよくに農園は、祖母山の懐に抱かれるように水田が広がる大分県・倉木に位置する。農園の主である平山さんは、『農のくらし』に憧れるうち、さまざまな出逢いとご縁がこの地と結びつき、稲作を始めることになったという。古くから米どころとして知られる倉木で、平山さんがつくるお米は農薬や肥料に頼らない自然農法のもの。地の利を活かしてつくるお米の評価は高い。



無知な自分に愕然とした、世界一周の旅

農業に興味を持つ前は音楽に夢中で、大学を中退して音楽の専門学校に入ったという平山さん。農家になるまでにはいくつかのターニングポイントがあった。

平山さん:「専門学校に入って、本当に才能のある人達と自分の差を思い知らされました。限界を感じてとても落ち込んでいた時に、目に入ったのがピースボートでした。世界を自分の目で見たいと思い、思い切って専門学校の2年目の学費をピースボートにあて、海外に出ることにしました。」

初めての海外旅行となるピースボートに参加した当時、平山さんは25歳。ピースボートの「地球大学」に英語を学ぼうと参加すると、そこには多くのカルチャーショックが待っていた。パレスチナの難民キャンプや、中米最大のスラム街を目の当たりにし、価値観が変わったという。

平山さん:「貧しくて生きていくのが大変な場所なはずなのに、子どもたちの目が輝いていたのが印象に残りました。これはなんなんだろう、豊かさとはお金の豊かさではないのかと思いました。そしてアフリカでサファリツアーに参加したとき、『豊かだなぁ』と思わず言葉に出てハッとしたんです。こういう豊かさもあるんだと。」

世界一周の旅がもたらしたものは価値観の変化だけではなかった。海外のことを知らなかったというショックよりも、日本のことを知らず、日本のことを語れない自分に愕然とした。帰国後、日本の文化を勉強しようと、平山さんは地元静岡で和食の道へと進んだ。



料理を学ぶ中で芽生えた「農の暮らし」への憧れ

静岡の日本料理店や東京の老舗料理店で和食を学ぶうち、平山さんの興味は自然と食材に移っていったという。自分たちが使う食材がどのように作られているのか調べるようになり、食品添加物や野菜に使われる農薬について知るようになった。野菜には思ったよりも多くの農薬が使われていることも知った。

平山さん:「農業は英語でAgricultureといい、文化なのだと思うとともに、日本は農文化だと考えるようになりました。貧困や紛争で苦しむ世界を目の当たりにした上で、じゃあ自分には何が出来るんだろうと考えた時、何気ない日常で知らず知らずのうちに貧困や紛争に加担しているという世界の仕組みから離れることが一つの選択だと思うようになり、自然と自給自足的な農の暮らしへと向かっていきました。もっと根源的なものを求めていたんです。」



心機一転、九州で出会った運命の場所

平山さんは会社を辞め、静岡で小さな畑を持って野菜を友人の店に売るようになった。そのうち、環境破壊から身を引かねばという想いから、山小屋で火を起こし湧き水で暮らす、電気・ガス・水道のない生活をするようになった。

平山さん:「でも、正義という名の武器で周りを攻撃していることに気づいたんです。自分は世界の仕組みや環境破壊から離れたところにいるつもりでも、実際には自己満足でしかなく矛盾していた。半年ほどでそんな暮らしをやめて、一旦全てのこだわりを捨てて心機一転、九州に移住することにしました。両親が阿蘇に移住しているとはいえ、全く土地勘もなく、家もお金もない。そこで住み込みで働ける仕事を探していたら、たまたま旅館の仕事を見つけたんです。」

南小国町の旅館で働き出した平山さんは当時36歳。40歳までには自分が理想とする『農の暮らし』を始めたいという目標を持ち、接客業の仕事をしながら、住む家を探した。そして今まで苦手だと思っていた接客の仕事をすることで、誰かに喜んでもらうことが自分の心を満たすのだと気づいたという。そんな中、竹田市の「農村回帰宣言市」という標語が目にとまり、竹田市役所に相談に行った。初めての相談で偶然今の家を見つけたのだという。旅館で働いて3年半。考えていた条件をすべて満たす、まさに"運命の出会い"だった。



"日本人"としての深い部分で、稲とつながった

平山さんが見つけた家には田んぼが1反ついていた。ただ、平山さんは野菜を育てることに興味があり、もともと稲作を本格的に始めるつもりはなかったのだという。もともとは自分が経験してきた料理や接客業を活かし、農家民宿を始めたらいいのではと考えていた。しかし奇しくも世界はコロナ禍にあり、今はそのタイミングではないのかもしれないと考えるようになった。さらに同時期に結婚もし、家がある倉木が生活の場となっていったのだ。

平山さん:「倉木のお米は美味しいと言われ、地形的な条件も、水にも恵まれている土地です。最初は田んぼは自給用に1反で十分と考えていました。ですが、美味しいお米の産地であるこの地の水田が今後どんどん放棄されていくという現状と、移住者である自分をとても良くしてくれている地域の方々との関係性がそこにある。自分のこの地での在り方を俯瞰した時、ここで暮らしていくのならば、この地の水田を守り、食糧をつくるという大切な仕事をもっとしっかりやっていこうと考えるようになり、新規就農したんです。いざ稲作を始めてみたら、野菜をつくるのとは次元の違う喜びがあったんです。日本人としての深い部分で稲とのつながりを感じたのかもしれません。」



美味しいお米は、環境を整えれば自然がつくり出してくれる

平山さんの田んぼは、現在面積も広くなり1町4反。農薬や肥料に頼らない自然栽培でお米を育てている。今住んでいる家は元々自然農家から譲り受けた場所でもあったため、周りは慣行農家ばかりでも理解があり、お互いが困ったことはないという。風通しがよくなるように稲を少なく植え、しっかりと根を張るように工夫をした田んぼからとれるお米は非常に食味がよく、評判も高い。

平山さん:「元々稲作に向いた土地だということもありますが、1年目から美味しいお米がとれています。いろいろと工夫をしたり、作業は多いかもしれませんが、それを苦に感じたことはあまりありません。周りの山々で磨き抜かれた伏流水が、地下水として流れ込んでいることや、標高が350メートルと高いため、昼夜の寒暖差が大きく、お米に甘みを与えてくれます。稲にとって必要な養分は、環境を整えてあげれば微生物や自然がつくり出してくれると考えていて、それを邪魔しないのが大切だと考えています。」



人の暮らしを支える「稲作」の役割を果たす。

お米をつくる上で大切な水に恵まれた竹田市だが、それを保つ上でも田んぼは重要だと平山さんは言う。山に蓄えられたミネラルや養分を山に降りた雨が運び、急峻な土地に開かれた田んぼにとどまることでお米となり、人々のもとに返ってくる。そして田んぼがあることで地下水はその土地にとどまり、田畑を潤すのだ。

「日本は稲作を選んだから豊かになったのだと心から思います。そうした自然の成り立ちや自然のリズムの中で、自分のリズムを呼応させながら暮らしつつ、しっかりお米を生産していきたいです。いずれはここで、自然農法で新規就農したい人や、農的な暮らしを始めたい人をサポートしていく仕組みづくりをしたいと思っています。」

倉木の地、そして農業の未来に想いを馳せながら、とよくに農園は人を幸せにする農園として、これからも歩み続ける。

文:emma. Inc.